藤井 達也

更新日:2022年10月19日

藤井 達也(ふじい たつや)

明治21年(1888年)~ 昭和9年(1934年)

-将来を嘱望されていた代議士-

藤井達也肖像写真

自由党の闘士であった父慶吉の三男として朔日町に生まれる。八戸尋常高等小学校を経て、青森県立第二中学校(現八戸高等学校)に入学する。在学中の成績は終始首席であった。医師藤田末蔵氏の援助を得て、明治40年(1907)鹿児島第七高等学校(現鹿児島大学)、43年東京帝国大学に入学。

大学在学中から政友会の院外団で活躍していたが、政治家の道を目指し大正3年(1914)卒業目前に退学する。8年、将来のため見聞を広めようとアメリカシカゴにあるノースウエスタン大学に入学し、12年卒業、翌13年に日本へ帰国する。直ちに青森県上北・下北郡より衆議院議員選挙に立候補したが、地盤がなく落選の苦杯を喫する。

昭和3年(1928)の選挙では地元一区から立候補し、雄弁家で堂々たる体格の達也は熱狂的な支持を集め当選、以後三期連続で代議士を務める。在職中は鮫漁港修築、凶作救援活動に尽力した。6年、犬養内閣の参与官となり将来を嘱望されていたが、五.一五事件の犬養毅首相の暗殺より内閣が総辞職となる。9年、急性肝萎縮症のため47歳の若さで死去。八戸の葬儀では二千人以上の人が焼香した。八戸出身のプリマ・ドンナ原信子はいとこにあたる。

犬養毅と藤井達也

犬養毅首相(左) 藤井達也(右)(個人蔵)

座右の銘

達也の座右の銘「季布にニ諾無く(きふににだなく)」(個人蔵)​​​​​​

本ページは「先人パネル(藤井達也)」をホームページ用にアレンジして作成しています。

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