【第四回】八戸城の発掘調査
今回は、「八戸城の発掘調査」についてご紹介いたします。
八戸城跡の発掘調査は、三八城公園の整備などに伴い、平成6年度から八戸市教育委員会によって行われています。これまでに31箇所の発掘調査が行われました。
八戸城は、寛文4年(1664)に八戸藩の誕生と共に藩主の居城と定められました。城は、「本丸」と「二の丸から構成され、外側に堀がめぐっていました。
「本丸」は、現在の三八城神社境内と三八城公園周辺にあたり、「二の丸」は、現在の八戸市庁・南部会館・龗神社等の敷地にあたります。
本丸の西側には、藩主が暮らした本丸御殿が建っていました。発掘調査では、掘立柱建物と礎石建物の2時期の建物跡が検出され、建物の建て方が変化していることがわかりました。本丸御殿は、文政10年(1827)に大規模に建替えられ、建替え前の古い御殿と新築する御殿を描いた2枚の絵図面も作成されています。「古御殿御絵図面」は、建替え前の平面図で、本丸内部の様子が描かれています。「新御殿御絵図面」は、建替え後の御殿の平面図で、御殿の部屋配置や建物の大きさが細かく記されています。
本丸の発掘では、御殿のほか当時のゴミ穴や堀跡などを検出しました。御殿で使われていた陶磁器や桶・樽・建物の部材といったたくさんの遺物が出土しています。陶磁器は、大量生産品に混じって、上質な磁器皿のセットや色絵磁器、繊細な絵付けが施された京焼陶器といった高級品が出土しています。また、「かわらけ」や「焼塩壺」、「瓦」などは、八戸市内の他の江戸時代の遺跡ではみられない遺物であり、農村とは違う御殿の暮らしを表しています。
二の丸とその周辺は、藩主一族や上級家臣の屋敷地でした。城の東門に面した屋敷地では「地下室(ちかむろ)」が検出されました。埋め土の最上層からは破損した陶磁器・貝・魚の骨などが出土したことから、最後はゴミ穴として埋められたようです。棄てられたゴミの中から、江戸や花巻で作られた土人形・鳩笛やままごと道具などの土製玩具が出土しました。八戸市近郊には土製玩具の産地がなく、出土も稀です。日記類の解読から、八戸藩上級武士は江戸で衣類や食料品等さまざまな品物を購入し、それらは国元へ送られていたことが指摘されています。屋敷の主も江戸や盛岡で勤務しています。今回出土した土製玩具も、八戸以外で購入された可能性が考えられ、当時の上級武士層の生活が伺える貴重な資料の一つです。
八戸城の発掘調査で出土した資料については、八戸市博物館にその一部が展示されております。また、八戸城新御殿の復元模型も展示されておりますので、足を運んでみてはいかがでしょうか。
- (注意1)「かわらけ」…素焼きの皿形土器。儀礼の器として使用されることが多い。
- (注意2)「焼塩壺」…粗塩を入れて加熱し、塩を精製した容器。壺に入った塩は高級品として贈答にも使われていた。
更新日:2020年01月07日