岩泉 正意

更新日:2020年01月16日

岩泉 正意(いわいずみ せいい)

天保12年(1841年)~明治42年(1909年)

-近代八戸の黎明を支えた洋学者-

岩泉 正意さんの写真

天保12年(1841年)八戸藩勘定方岩泉和五郎の長男に生まれ、藩政期は大七と称した。嘉永5年(1852年)家督を相続、勘定方見習いとして仕官し、真法恵賢流和算の最後の伝承者として算術師範を務めた。

慶応元年(1865年)に志和代官下役として志和に赴き、翌年盛岡の日新堂に留学した。日新堂は近代製鉄の先駆者大島高任と和蘭医学者八角宋律を総督とする洋学校で、大七は英語、物理、化学などを学んだ。

戊辰戦争により留学は打ち切られ、大七は慶応4年奥羽越列藩同盟への使者として仙台へ出役する。明治2年(1869年)下級武士でありながら要職に任命され、明治維新期の藩政に携わった。一方、明治3年藩校で初めての洋学寮長を命じられる。廃藩置県後は、蛇口胤親が設立した洋学校・開文学舎に関わり、八戸の進歩的教育に貢献した。

明治8年以降、青森県第九大区区長、八戸分病院院長などを歴任。開明的立場にあった正意は、ギリシャ正教の弾圧を解き教会の設立を認めた。明治12年初の県会議員選挙に当選、第一回通常県会開催に際し、J.S.ミルの「代議政体論」の解説を行った。明治15年初代三戸郡長に就任するも、産馬騒擾事件で県令と地方農民の板挟みとなり、翌年一切の官職から身を引いた。その後、68歳で亡くなるまで、上徒士町の自宅に岩泉学問所を設け、教育や法律について市井の教育に当たった。(左上写真は青森県議会提供)

新羅神社境内にある岩泉正意の撰文が刻まれた西南戦争戦没者追悼碑の写真

岩泉正意の撰文が刻まれた西南戦争戦没者追悼碑(新羅神社境内)

Herbert Spencerの「Representative Government(代議政体論)」を岩泉が書写し、訳文を書き添えたものの見開きの写真

Herbert Spencerの「Representative Government(代議政体論)」を岩泉が書写し、訳文を書き添えたもの(明治18年 個人蔵、八戸工業高等専門学校寄託)

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