永嶋 暢子

更新日:2020年01月16日

永嶋 暢子(ながしま ようこ)

明治30年(1897年)~昭和21年(1946年)

-女性解放運動に尽力-

永嶋 暢子さんの写真

三戸郡北川村(旧名川町)で酒造業を営む家に生まれる。青森県立実科高等女学校(現八戸東高等学校)へ進むと、「嫉妬」という漢字が女偏であることに差別を感じ、試験は心(忄)偏で解答したという。彼女の敏感な感受性と、行動力の高さを伝える逸話である。

卒業後上京した暢子は、平塚らいてうらが率いる新婦人協会や、野神竜らの関東婦人同盟などに参加。女性解放と関東大震災被災者救済活動に取り組む一方、週刊『婦女新聞』の記者として健筆を振るう。長谷川時雨主宰の雑誌『女人藝術』では「社会時評」を担当し、女性の地位向上や労働者階級の開放を目指した。

昭和に入って弾圧が厳しくなる中、検閲を避けるため、陸奥光代、新島まちなどの異なるペンネームを駆使して執筆、何度検挙されても偽装転向を繰り返して活動を継続する。確固たる信念を貫き、数多くの社会運動と文筆活動を通じて、差別や貧困問題と戦い続けた。

昭和13年(1938年)、友人を頼って渡満。満州国の保護観察下に置かれながらも、革新的な思想を持ち続けて様々な知識人と交流を図り、『月刊満州』社や満州帝国協和会で働く。戦後、満州国の首都・新京(現在の中国吉林省長春市)で日本人孤児らの世話をするうち、当時蔓延していたチフスに感染し昭和21年(1946年)死去。49歳の生涯を閉じ、東京の青山墓地と、八戸糠塚の大慈寺に眠る。

女人藝術の複刻版の表紙の写真

昭和3年(1928年)に創刊した『女人藝術』は4年後の7年(1932年)に終刊した(写真は復刻版)

糠塚大慈寺にある永嶋暢子の墓の写真

糠塚大慈寺にある永嶋暢子の墓 そばには「永嶋暢子顕彰詞」建っている

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