大沢 多門
大沢 多門(おおさわ たもん)
天保5年(1834年)~明治39年(1906年)
-えんぶり、三社大祭の基礎を作る-

糠塚で生まれた根井沢定右衛門は、嘉永3年(1850年)に家督を相続。明治元年(1868年)の野辺地戦争で八戸隊副隊長として活躍した。戊辰戦争後に大沢多門と改名した。5年に山伏小路で八戸初の劇場「於多福座(おたふくざ)」を開設して各種興業を行った。
明治維新後、えんぶりは旧来の悪い風習とみなされ、9年に県参事からえんぶりが禁止された。このため、町の有力者と共に、長者山新羅神社の繁栄策の名目で「豊年祭」と銘打ち、14年にえんぶりを復活させた。
また、八戸三社大祭の振興にも大きく貢献している。従来はおがみ神社1社の祭礼であったが、20年に新羅神社、神明宮との三社の祭礼とし、現在の基礎を築いた。29年には日清戦争に勝利した記念として祭旗・神輿2台を購入している。
さらに、八戸町戸長(戸籍事務を扱う)に任命される一方、県と農民が種馬等の管理権について争った「産馬騒擾(そうじょう)事件」の際には民営化の側に立ち、持ち前の反骨精神を発揮した。

三社大祭開催を祝う写真。両手で物を持って中央で立っている人物が大沢多門。(明治29年撮影)

大沢多門の功績をたたえ、有志が昭和3年に建立した長者山新羅神社の「頌徳碑(しょうとくひ)」。
更新日:2021年03月11日