種市 良一
種市 良一(たねいち りょういち)
明治元年(1868年)~昭和12年(1937年)
-「医は仁術なり」を実践した人物-

種市家は盛岡藩御役医として代々仕えた家系である。良一は金田一村(二戸市)に生まれ、明治6年(1873年)に父と共に八戸に移り住んだ。
父の良哲も医師であり、9年に八戸初の近代医学による「一松堂医院」を朔日町に開業した。一松堂の名前は庭の一本の松に由来している。良哲はコレラ治療に奔走する中、19年に自らも感染して急逝した。
良一は東京済生学舎でオランダ医学を学び、24年に医業を継いだ。貧困者からは医療費を取らず、日の出から夜まで診療するなど「医は仁術」を実践した。
38年に篤志看護婦人会八戸支部の結成に尽力したほか、助産婦の亀徳しづなど多くの人材を育てている。
31年に番町に第二医院を開業したが、大正13年(1924年)の八戸大火で両院とも焼失し、朔日町のみが「一松堂医院」として今日に至っている。昭和3年(1928年)に三戸郡医師会会長となり、翌年に八戸市医師会と改め、初代会長に就任した。

大正6年夏の落成時の「一松堂医院」。当時の建物としては珍しく3階建てで、左端に一松堂の二つ巴、右側に種市家の九曜くずしの家紋が見られる。

現在の「一松堂医院」は、昭和62年に建替えられているが、創設から130年以上同じ場所で開業している。
更新日:2020年01月16日