佐藤 眞弘
佐藤 眞弘(さとう まさひろ)
昭和11年(1936年)~昭和59年(1984年)
-八戸のアイスホッケー発展に貢献-
神奈川県横須賀市生まれ。後に八戸市廿六日町に移る。中学生でアイスホッケーを始め、八戸商業高校に進学。昭和28、29年に国体青森県高校チーム代表として準優勝に貢献した。
明治大学ではポイントゲッターとして、八戸出身の田名部匡省を中心とする立教大学と毎年優勝争いを演じ、32、33年の日本学生氷上競技選手権大会(インカレ)を制覇した。また31年の国体では青森県一般チームのFWとして初優勝を果たした。
34年に苫小牧市の岩倉組に入社。同郷の田名部や風張喜民夫らと、3度の全日本選手権制覇に貢献し岩倉組の黄金期を築いた。
日本のトップ選手となった佐藤は、37年の世界アイスホッケー選手権大会に出場。さらに39年インスブルック冬季五輪では12得点を上げ、日本人初の五輪得点王に輝いた。小柄な佐藤が大柄な外国人選手をかわしながらシュートする様は、「ゴール裏の魔術師」と評された。
引退後、佐藤の気さくな人柄を慕って多くの市民が集まり、51年に初の素人チーム「八戸ペンギンクラブ」が結成された。佐藤は指導者そしてレフェリーとして、素人アイスホッケーの指導・普及に尽くすも、59年に急逝。翌年から、佐藤眞弘杯争奪素人アイスホッケー大会が開催され、競技人口の拡大に努めた佐藤の名は、今も語り継がれている。現在青森県素人アイスホッケー協会には約60チーム1000人が登録し、アイスホッケーは広く市民に親しまれている。
佐藤眞弘杯の優勝カップ
昭和41年に長根に完成したアイスホッケー用パイピングリンク 佐藤たちの活躍もあり当時八戸ではアイスホッケーが大変な人気だった(八戸市博物館蔵)
更新日:2020年01月16日