泉山 貞義
泉山 貞義(いずみやま さだよし)
大正6年(1917年) ~ 昭和20年(1945年)
-長根育ちの日本チャンピオン-

本徒士町に生まれた貞義は、長根で幼い頃からスケートになれ親しんできた。抜群の運動神経の持ち主で、八戸商業学校ではスケートの他に陸上競技の選手としても活躍した。
昭和5年(1930年)、長根で開催された第1回全日本氷上選手権大会は、今日の「氷都・八戸」を築く礎となった画期的な大会だった。
昭和8年(1933年)の全日本中等学校スケート大会では500メートル、1500年メートルの各種目に中学新記録を出して優勝した。11年(1936年)には明治大学に進み、翌年の全日本スピード選手権では総合4位、その翌年は7位の成績を収めるなど、急速に頭角を現し、昭和14年(1939年)には、長野県で開かれた第10回全日本スピード選手権の1万メートルで、2位に17秒もの大差をつけて総合優勝に輝いた。
昭和15年(1940年)、10年ぶりに長根で第11回全日本スピード選手権が開かれた際には、軍服で開会式に参加し、優勝杯を返還したが、軍役のためレースには出場できなかった。昭和20年、フィリピンのルソン島で戦死し、再び故国の氷上に立つことはなかった。

入営前に明治大学学友会スケート部の卒業記念カップを手に(前列中央・貞義)

第11回全日本スピード選手権開会式で、軍服姿で優勝杯を返還する貞義
更新日:2020年01月16日