小國 英雄

更新日:2020年01月16日

小國 英雄(おぐに ひでお)

明治37年(1904年)~平成8年(1996年)

-日本映画の黄金期を支えた脚本家-

小國 英雄

柏崎新町生まれ。幼少期に父親を亡くし母一人子一人で育つ。八戸中学校(現八戸高等学校)在学中に、武者小路実篤に傾倒し小説家を志す。中学4年生の時に1か月と卒業後に2年間、実篤が主催する宮崎県の「新しき村」へ入村し共同生活をした。進学のため離村するも、生涯武者小路実篤を師として親交を持ち続けた。

経済的に恵まれなかった英雄は、キリスト教徒であったこともあり、学費が免除される東京学院(現関東学院大学)神学部に進学。アルバイト代で本を買い集め読書に没頭し、外国人教員の指導のもと英語を猛勉強したが、小説家になるため2年で中退した。なお大正12年(1923年)在学中に起きた関東大震災に際し、義捐(ぎえん)活動として、八戸中学校の先輩である小説家北村小松らと、八戸の錦座で演劇を催した。

昭和4年(1929年)日活に入社。当初太秦(うずまさ)撮影所で助監督だったが、脚本部に転属。文才や語学力、豊富な知識や教養を持ち合わせ、落語や演劇もたしなんでいた英雄は才能を開花させた。脚本家デビューは「モダンマダム行状記」。13年に東宝へ移籍し、「支那の夜」「昨日消えた男」「エノケンの法界坊」などの話題作・ヒット作を手がけ、人気脚本家になる。戦後フリーになり、27年には黒澤明監督の「生きる」に共同脚本で参加し、その後も「七人の侍」「赤ひげ」「乱」など多数の脚本を手がけた。

晩年英雄は自身の脚本について、「ただ一つ、何をやってても思うのは“まごころ”っていうことだ」と語っているとおり、世に送り出した300本以上の脚本は、人間愛に満ちあふれている。

シナリオ講座で教鞭をとる英雄さんの写真

シナリオ講座で教鞭をとる英雄(当写真と上の執筆時の写真は、松浦稔氏撮影提供)

壁にかけられた10枚の英雄さんが脚本を手がけた映画のポスターの写真

英雄が脚本を手がけた映画のポスター(八戸クリニック街かどミュージアム所蔵)

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