斉藤 健治

更新日:2023年02月10日

斉藤 健治(さいとう けんじ)

大正13年(1924年)~ 平成25年(2013年)

-レスリング王国八戸の発展に尽力-

斉藤健治肖像写真

(写真:個人所蔵)

小中野村(現八戸市)南横町で、コークスなど燃料を扱う商店を営む斉藤家の次男として生まれる。小中野尋常高等小学校卒業後、八戸中学校(現八戸高校)に進学し柔道選手として活躍した。昭和26年(1951)に早稲田大学政治経済学部を卒業。在学中は政治家や記者を輩出する雄弁会に所属した。兄が戦死したため、跡継ぎとして家業に携わるようになり、帰郷後の34年八戸市議に初当選し、以降11期44年に渡って市政の発展に尽くした。

30年代初頭、川守田順一郎(初代全日本チャンピオン)や高校教師の塚原良一らがレスリングを指導し、八戸の選手が活躍し始めたが、支援者が少なく青森県レスリング協会は資金不足であった。そこで柔道経験があり、私欲なしに面倒見がよかった健治が乞われて、39年レスリング協会会長に就任。指導者や選手を鼓舞し、私財を投じて大会遠征費や日米選手交流に尽くすなど物心両面で支援し、4,50年代八戸のレスリング界は黄金期を迎えた。

41年八戸開催のインターハイで八戸工業高校が初優勝を遂げたのを契機に、八戸電波高校、光星学院高校等も含め毎年のように八戸勢が全国優勝を重ねた。さらに社会人チーム「斉藤道場」が46年から全国大会3連覇を果たし、52年青森あすなろ国体では八戸の選手8名が個人優勝、さらに少年・成年ともに団体優勝し、レスリング王国の名を轟かせた。翌年健治は会長を退任したが、その後も国内外で活躍する八戸出身の選手を支援し続けた。

また、健治は日中友好の懸け橋としても活躍した。57年に八戸市日中友好協会会長就任、翌年第4次八戸市各界友好訪中団団長として蘭州市を訪問して以降、青少年の交流等が始まり、平成10年(1998)に友好都市締結、現在まで交流が続いている。多岐にわたる社会貢献が認められ、4年文部大臣体育功労賞、6年自治大臣感謝状、16年旭日小綬章を受賞した。

日本高校選手団引率でアメリカへ

昭和38年日本高校選手団引率でアメリカへ、健治(中央)と日本レスリング協会八田一郎会長(左)

(写真:個人所蔵)

アテネ五輪壮行会

赤石光生や伊調姉妹、小原日登美など多くの八戸出身選手が世界で活躍した(平成16年アテネ五輪壮行会)

(写真:個人所蔵)

 

◎本ページは「先人パネル(斉藤健治)」をホームページ用にアレンジして作成しています。

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