石井 萬吉
石井 萬吉(いしい まんきち)
明治元年(1868年)~ 昭和9年(1934年)
-八戸初の庶民金融機関の創業にリーダーシップ-
(写真:個人所蔵)
信用金庫は、地域の中小・零細業者や住民のために生まれた、相互扶助による協同組織の地域金融機関。主な取引先は地域の中小企業や個人で、地域社会の持続的成長を使命とする非営利組織である。八戸初の信用金庫は、大正11年(1922)石井萬吉ら鍛冶町の町民によって誕生した。
大正時代、八戸には八戸商業銀行など複数の銀行があったが、零細商工業者たちは、それら銀行から思うように融資を受けられず、商売の資金に窮することが多かった。
八戸中心街の南の玄関口に位置し、久慈街道沿いにある鍛冶町は、農村からの来街者を相手に商売や行商などを行う零細商工業者が多く、様々な業種の店が軒を並べていた。大正11年3月、八戸でも早い段階で発足した鍛冶町町内会は、「町内繁栄のために、新たな事業を起こそう」と、経木屋を営む萬吉をはじめ河西又重郎、天摩由太郎、青村善太郎、高橋保次郎など町内の役員らが鍛冶町屯所に集まり、同年12月27日に有限責任八戸鍛冶町信用組合を発足させ、初代組合長には、当時絶大な信用力のあった建設業者の近藤元太郎が就任した。
萬吉の陣頭指揮のもと昭和初期の金融恐慌を乗り越えた信用組合は、昭和5年(1930)に営業地区を八戸市全域に拡張、戦前には5店舗を設置し経営基盤を築く。7年医療費に苦しむ人々を助けるため、同組合役員が中心となり三八城病院(現八戸市立市民病院)を設立する。
事務経営のトップであった萬吉は、ルーツを遠野南部家臣に持ち、七人兄弟の二男として八戸に生まれ、鍛冶町消防四代目組頭も務めた。萬吉は「中小企業のため」が口癖で、常に現場に立ち、困った人がいると利子も取らずに貸し出すほど、組合員の要望に親身に応え信用を高めた。9年、萬吉の功績が讃えられ、産業組合中央会から緑綬功労賞を受賞した。
(注意)経木とは、スギやヒノキなどの木材を紙のように薄く削ったもの。菓子折に敷いたりする。

創業地の旧鍛冶町屯所。大正14年有限会社八戸信用組合に改組、昭和26年八戸信用金庫に改組(写真:個人所蔵)
八戸信用金庫(現 青い森信用金庫)が八戸市立市民病院に寄贈した像「和な朝(のどかなあした)」
◎本ページは「先人パネル(石井萬吉)」をホームページ用にアレンジして作成しています。
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更新日:2023年02月10日