秋山 皐二郎

更新日:2023年02月10日

秋山 皐二郎(あきやま こうじろう)

明治43年(1910)~平成19年(2007)

-産業都市八戸市を飛躍させた市長-

秋山 皐二郎肖像写真

5期20年八戸市長を務めた秋山皐二郎は、湊村(現八戸市)で網元を営む秋山家の四男として生まれた。2歳で父與吉を亡くし、叔父秀之助に漁業の手解きを受けた。湊尋常高等小学校、八戸中学校(現八戸高等学校)を経て、昭和11年(1936)中央大学法学部卒業。合同油脂株式会社に入社後、二度召集を受ける。18年には陸軍中尉として満州国境警備にあたる。命がけの転戦、逃避行を経て、21年8月帰還を果たす。

戦後は家業に従事し、24年小樽沖で前例のないサバ旋網漁に成功、同年青森県旋網漁業組合長に就任した。さらに八戸漁連初代会長として、大漁貧乏打開のため製氷冷蔵施設等を整備する。36年には多額の負債を抱えた株式会社八戸魚市場社長を引き受け、再建を果たす。皐二郎の働きは水産復興の牽引力となり、全国有数の水産都市八戸の礎を築く。

水産業で名を馳せていた皐二郎は、27年市議に推され初当選。以降市議2期、34年からは県議3期を務め、新産業都市指定等に岩岡徳兵衛市長(当時)らと尽力する。

44年八戸市長に初当選。新産業都市八戸の実現に向けて順調な滑り出しをみせるが、当時は公害や交通問題、住宅不足等が深刻化。皐二郎は市政初の八戸市総合計画を策定し、右腕である巻石蔵助役と住みよい、生きがいのある総合産業都市を目指し辣腕を振るった。なかでも八戸大橋建設や八戸線高架化等の都市整備により交通問題は大幅に解消。また市川水産加工団地や桔梗野工業団地等を整備し、大気汚染等の公害抑制に努めるなど、産業発展と市民生活の環境改善に努めた。

とりわけ、素材型産業から高度技術情報産業への移行や、東北新幹線太平洋回りの実現に尽力したことは、21世紀に向けた八戸の発展に大きく貢献している。

実直な性格で、与えられた立場で世の為に全力を尽くすことを信念とし、他者に感謝して職務にあたった皐二郎は、平成元年(1989)に市長を勇退、8年名誉市民に選ばれた。​​​​

八戸大橋銘板

神田重雄元市長の遺志を継ぎ港湾整備に力を注いだ。八戸大橋中央部に直筆の銘板が掲げられている。

 

◎本ページは「先人パネル(秋山皐二郎)」をホームページ用にアレンジして作成しています。

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