橋本 忠吉

更新日:2020年10月08日

橋本 忠吉(はしもと ちゅうきち)

明治44年(1911年)~昭和52年(1977年)

-「謝恩の商道」を貫き、中心街の活性化に奔走-

橋本忠吉肖像写真

父磯吉(橋文6代目)、母サタのもと、四人兄弟の次男として八戸町に生まれる。長男が夭逝(ようせつ)したため忠吉が繰り上げ長男となる。橋本家は江戸時代から続く酒造業の老舗「河内屋」の分家で、初代橋本文蔵の名から「橋文」という屋号になった。

橋文は呉服衣類を中心に雑貨・小間物・雑穀を商っていたが、明治初期に5代目文蔵が下駄履物店を始め、以来「履物(はきもの)の橋文」の名が定着。洋装の普及に伴い、革靴が徐々に浸透し始めた頃の昭和4年(1929)、忠吉は八戸中学校(現八戸高等学校)を卒業すると家業を継ぎ、翌5年には家業を靴専門の卸小売業に転換した。これは、時節柄軍靴(ぐんか)の需要が増えると見込んだこと、八戸という土地柄、靴の売れ行きが鈍る冬にはスケート靴や下駄スケートを取り扱うといった、忠吉の先見の明が発揮された結果である。

7年、父の病没後に7代目となる。戦時中は八戸皮革製品統制組合専務として靴の配給業務に携わり、このことが26年発足の協同組合八戸専門店会と、44年発足の協同組合八戸総合卸センターに結び付いた。

八戸初の七夕まつり、花火大会、歳末連合大売り出し等の当時としては斬新なイベントを次々に打ち出し、中心商店街活性化のために奔走した。また、八戸観光協会会長、八戸商店街連盟会長のほか、美術愛好家集団である八戸チャーチル会の創立・初代会長、正調八戸小唄保存会会長を歴任し、橋文靴店の改装を機に2階を画廊にして数々の展覧会を行うなど、文化観光面でも大いに活躍した。

木訥(ぼくとつ)ながら、親分肌で面倒見が良かった忠吉は、「周りの商店街が良くならなければ自分の店も良くならない」として、常に互助精神を忘れず、「謝恩の商人道」に生きた。その精神は2人の息子、そして孫へと引き継がれ、橋文の社是「共存共栄」に息づいている。

昭和24年撮影の橋文靴店

昭和24年に撮影された橋文靴店

忠吉は新しい物に目がなく、当時まだ珍しかった自転車を社用車として何台も所有していた(個人蔵)

橋文店舗前の七夕かざり

忠吉らが始めた店舗前の七夕かざりは、現在、八戸商工会議所が主催している「八戸七夕まつり」の前身である(個人蔵)

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