小泉 紫峰
小泉 紫峰(こいずみ しほう)
明治41年(1908年)~平成15年(2003年)
-八戸地域の川柳文化発展に貢献-

福地村(現南部町)において、父利吉、母すえの長男として生まれる。本名は林之助(りんのすけ)。地引(ちびき)高等小学校を卒業後、野辺地町の醸造業を営む野坂与治兵衛(よじへえ)家に奉公する。
昭和8年(1933)、野辺地での奉公を終えた紫峰は実家のある八戸に帰省し、父が創業した小泉商店を継ぐ。同年、「はちのへ川柳社」を創設。紫峰は初代会長となり、家業の傍ら、川柳不毛の地と言われていた八戸で文芸としての川柳を高めていった。初めての川柳句会は同年9月9日、県内の若き柳人が集まり開催された。会誌『川柳はちのへ』は戦時中に休刊するも、22年に再刊。その2年後、県南川柳大会が始まったことを契機に会誌名を『川柳うまっこ』に改号し、現在も隔月で発行されている。
はちのへ川柳社創立20周年の27年には、中央誌『川柳研究』主宰川上三太郎ら川柳界の巨匠を迎えて記念大会を催し、参加者が100人を超える大盛況となった。
37年に初の句集『すて石』を刊行。この他に『苔の花』がある。多くの受賞歴がある
紫峰は、57年、はちのへ川柳社創立50周年を期に会長職を退く。句碑は、長流寺境内、おいらせ町パセリー菜本社、八戸公園こどもの国内の3か所に建立されている。
紫峰は、北日本川柳大会の開催など結社を超えた活動を行い、八戸地域の川柳
の発展に柳人として尽力しただけでなく、家業の種苗店を拡大させ、小中学校へ種と苗を寄贈するなど環境美化にも力を入れた実業家でもあった。辞世の句は「天国の句座をにぎわす趣味いちず」。

平成元年、句碑「収穫へ たね屋の知恵も 感謝され」建立を祝って、紫峰(写真中央)のもとに多くの柳人が集まった(個人蔵)
会誌『うまっこ』は、創刊以来表紙に八幡馬を掲載し、八戸という郷土色を全面に押し出したものになっている(個人蔵)
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更新日:2024年10月22日