【第二回】 八戸藩の歴代藩主

更新日:2020年01月07日

前回は、八戸藩が誕生した経緯についてご紹介しましたが、今回は、八戸藩初代藩主直房から九代信順までの藩主をご紹介いたします。5代、7代、9代藩主の肖像画はあるのですが、残念ながら他の藩主の肖像画がなく風貌は不明なので、その辺は皆様のご想像にお任せしたいと思います。

歴代藩主について、藩主名、生没年、在職中の主な出来事等を一覧表にしましたのでご覧下さい。

藩主一覧

八戸藩の歴代藩主(1代~5代)
1代 2代 3代 4代 5代
藩主名 南部直房
(ナオフサ)
南部直政
(ナオマサ)
南部通信
(ミチノブ)
南部広信
(ヒロノブ)
南部信興
(ノブオキ)
南部信興の肖像画
続柄 盛岡藩初代藩主南部利直の7子。
母は盛岡藩士中里嘉兵衛正吉の妹(のちの仙寿院)。
盛岡生まれ、幼名は辰。のち中里を名乗り、数馬と称す。
室は盛岡藩士川口与十郎の娘(のちの霊松院)。
直房の長男。
母は家臣川口与十郎の娘(のちの霊松院)。
盛岡に生まれ、初名は武太夫。
室は盛岡藩4代藩主南部
行信4女の志久姫。
盛岡藩3代藩主南部重信の4男。盛岡藩から養子に入る。
母は八戸新井田村の松橋孫助の娘で、沢(のちの浄生院)という。
幼名は内匠、のち、右近と称する。
室は加賀大聖寺藩主前田利明の娘友姫。
通信の長男。
幼名は宮内。
室は丹後国亀山藩主松平信庸の娘秀姫。
広信の長男。
幼名は亀之助。初名と隠居後は智信を名乗る。
室は大和国芝村藩主織田輔世の娘。
官名 左衛門佐 遠江守 遠江守 甲斐守 左衛門尉
生没年 寛永5年(1628)

寛文8年(1668)6月24日
寛文元年(1661)5月6日

元禄12年(1699)3月16日
延宝元年(1673)2月11日

享保元年(1716)8月24日
宝永3年(1706)3月7日

寛保元年(1741)5月2日
享保10年(1725)9月25日

安永2年(1773)8月13日
没年齢 41才 39才 44才 36才 49才
在職年 寛文4年(1664)12月6日

寛文8年(1668)6月24日
寛文8年(1668)8月21日

元禄12年(1699)3月16日
元禄12年(1699)5月13日

享保元年(1716)8月24日
享保元年(1716)10月26日

寛保元年(1741)5月2日
寛保元年(1741)6月24日

明和2年(1765)5月29日
在職年齢 37~41才 8~39才 27~44才 11~36才 17~41才
在職年数 5 32 18 26 25
在職中の主な
出来事
寛文4年(1664)
二万石で八戸藩誕生

寛文5年(1665)
八戸藩領地が決定。三戸郡のうち41ヶ村、九戸郡のうち38ヶ村、志和郡のうち4ヶ村、合計83ヶ村。八戸城を居城と定める。

寛文5年(1665)
六日町より出火、11軒焼失

寛文8年(1668)
久慈の鉄を盛岡へ送る。
以後、鉄は、特産物として他領へ移出
延宝元年(1673)
足軽町から出火
20軒焼失

延宝2年(1674)
大地震
十三日町から出火し、三日町へ延焼
時鐘を馬場町に設置

延宝5年(1677)
強震で各地で被害、余震
続く。
領内総検地終了

延宝6年(1678)
大火で八日町中ほどから廿八日町まで表裏残らず焼失

延宝7年(1679)
白銀浜に寄り鯨

天和元年(1681)
白銀浜に寄り鯨(36頭)
白銀村の八戸道にある小流へ鯨骨を架橋し、鯨橋と称する。

貞享4年(1687)
藩主直政が詰衆となる。

元禄元年(1688)
藩主直政が将軍綱吉の側衆、側用人となる。

元禄8年(1695)~
大凶作
領内人口58,507人
~元禄16年(1703)
大飢饉による餓死者16,745人

宝永3年(1706)
鮫の蕪島に堂守を新造し、弁財天を勧請

宝永4年(1707)
湊村川口に十分一役所設置。漁船から漁獲高の10分の1を徴収する。
同年、地震による津波
享保6年(1721)
法霊神輿、初めて長者山へ渡御
(八戸三社大祭の始まり)

享保10年(1725)
正月、荒町より出火、
69軒焼失

享保17年(1732)
領内の人口56,401人

元文2年(1737)
廿三日町神明宮の祭礼。以後、毎年行われる。
寛延2年(1749)
猪飢渇(イノシシケガジ)による翌年までの餓死者3,000人

宝暦3年(1753)
冷害と風水害、大凶作

宝暦6年(1756)
飢饉による死絶者多し。
領内の人口45,367人

宝暦12年(1762)
大地震、湊村に津波

宝暦13年(1763)
大地震、津波、大洪水にて開藩以来未曾有の大凶作となる。
八戸藩の歴代藩主(6代~9代)
6代 7代 8代 9代
藩主名 南部信依
(ノブヨリ)
南部信房(ノブフサ)
南部信房の肖像画
南部信真
(ノブマサ)
南部信順
(ノブユキ)
南部信順の肖像画
続柄 信興の長男。
幼名は亀次郎、のち左近と名乗る。
室は伊予吉田藩主伊達村信の娘慶姫。
信依の長男。
幼名は繁松、のち右近と名乗る。
室は越後新発田藩主溝口主膳直養の娘よし姫。
信依の4男、信房の弟。
幼名は安吉。
室は相模小田原藩主大久保忠真の妹里姫。
鹿児島藩8代藩主島津重豪の子で13男とも5男ともいわれる。
母は松平氏。
幼名は虎之助、のち篤之丞と名乗る。
信真の養子となり、8女の鶴姫と縁組。
官名 甲斐守 伊勢守 左衛門尉 遠江守
生没年 延享4年(1747)2月10日

天明元年(1781)6月7日
明和2年(1765)6月15日

天保6年(1835)5月16日
安永7年(1778)2月1日

 


弘化3年(1846)12月29日
文化10年(1813)1月11日

明治5年(1872)2月20日
没年齢 35才 71才 69才 60才
在職年 明和2年(1765)5月29日

天明元年(1781)2月14日
天明元年(1781)2月14日

寛政8年(1796)2月13日
寛政8年(1796)2月13日

天保13年(1842)5月11日
天保13年(1842)5月11日

明治4年(1871)7月14日
在職年齢 19~35才 17~32才 19~64才 30~59才
在職年数 17 16 47 30
在職中の主な
出来事
明和2年(1765)
湊橋架け替え。
領内の惣馬改め(馬の戸籍調査)

明和6年(1769)
大地震

明和8年(1771)
寺横町、大工町全焼
天明3年(1783)
未曾有の大飢饉

天明4年(1784)
新井田の対泉院に餓死萬霊等供養塔建立
領内人口65,000人余りの内、30,000人余り死亡と記載あり。

寛政7年(1795)
長者山念仏堂で天明3年飢饉の供養を行う。
久慈(領内)で一揆、家老処分
文化3年(1806)
廿六日町より出火、170軒焼失(七ツ家焼け)

文化7年(1810)
領内の人口
51,396人

文政2年(1819)
野村軍記を藩政改革の責任者に登用し、改革を推進させる。

文政8年(1825)
廿三日町より出火、242軒焼失

文政10年(1827)
長者山新羅神社造営
騎馬打毬の始まり。

文政12年(1829)
惣門町より出火、404軒焼失(惣門町焼け)

天保3年(1832)
天保9年まで連続7年凶作

天保5年(1834)
領内百姓一揆(稗三合一揆)
藩政改革の責任者野村軍記が失脚
天保14年(1843)
鮫沖に異国船出没

安政元年(1854)
沿岸警備を目的に、八戸領内8ヶ所に台場(砲台)を築く。

元治元年(1864)
廿三日町より出火、317軒焼失(清次郎焼け)

明治元年(1868)
野辺地で弘前藩と交戦

明治2年(1869)
版籍奉還により、藩主信順が藩知事となる。

明治4年(1871)
廃藩置県により廃藩
同年、青森県誕生

出典

  • 「八戸藩の歴史をたずねて」三浦忠司
  • 「写真が語る八戸の歴史 世紀を超えて 近世編」八戸ガス興業株式会社
  • 「新編 八戸市史 通史編2. 近世」八戸市
  • 「青森県人名事典」東奥日報社
  • 「八戸南部氏稿」八戸市
  • 「南部八戸の城下町」高島成侑、三浦忠司

藩主の肖像画

南部興龍氏蔵 「第5代藩主南部信興肖像」
個人蔵 「第7代藩主南部信房肖像」
鹿児島県垂水市教育委員会蔵 「第9代藩主南部信順肖像」

八戸南部家系図

八戸南部家系図

一覧表の「在職中の主な出来事」に、「三日町」、「十三日町」、「廿八日町」といった聞き慣れた町名が出てきます。前回の「八戸藩の誕生」でご紹介 したとおり、八戸藩が誕生する以前、八戸は盛岡藩の直轄地でした。寛永4年(1627)の根城南部氏の遠野移封後、八戸藩初代藩主直房の父である利直(盛岡藩主)が「町割り(今で言う区画整理)」を始め、寛永7年(1630)には、三日町、十三日町、廿三日町、八日町、十八日町、廿八日町の新市街が完成したと伝えられています。八戸町の始まりです。

今回、八戸藩の歴代藩主についてご紹介しましたが、今年2014年7月5日(土曜日)~8月24日(日曜日)にかけて、八戸市博物館において、八戸藩開藩350年記念特別展「八戸と9人の藩主」を開催します。

そちらも乞うご期待!

次回は、八戸の城下町についてご紹介します。

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