■八戸藩初代直房公領地御拝領之節 御礼御奉書 (なおふさこうりょうちおんはいりょうのせつ おれいごぼうしょ) 寛文四年(1664)、盛岡南部藩主南部重直(しげなお)は跡継ぎを 決めないで死去しました。当時、跡目が決まっていない場合は御家断絶、 領地没収が通例でした。しかし、幕府は穏便にことを済ませ重直の弟二人の うち、重信(しげのぶ)に盛岡八万石、直房(なおふさ)に八戸二万石を分け 与え八戸藩が誕生することになりました。この書状は、領地拝領したお礼 に登城するよう直房に命じた幕府重役連名のものです。
■八戸藩二代直政公御家督之節 御礼御奉書 (はちのへはんにだいなおまさこうごかとくのせつ おれいごぼうしょ) 八戸藩初代南部直房は、藩主になって二年後に急死します。 死因は暗殺とされますが、八戸藩及び調査を命じられた南部藩は病気として 届けます。報告をうけた幕府は、直房の長子直政に 八戸二万石を相続させます。 この書状は、直政相続の御礼に登城するよう命じたものです。 直政は才能豊かな人物で後に幕府側用人に抜てきされました。
■八戸藩直政二代公御遺訓(直政書) (はちのへはんにだいなおまさこうごいくん) この御遺訓は、儒学漢学に秀でた八戸藩第二代南部直政が直筆で書いたもの です。直政は幼少の頃から藩の儒医浅山ト意の訓育を受け、江戸弘文館の 林整宇(はやしせいう)について儒学漢学を学びました。儒学詩文に長じ、 学問好きな直政は五代将軍綱吉(つなよし)に厚遇され、側用人 (そばようにん)にまで登用されます。十八歳で元服して直政を名乗り、 従五位下遠江守(じゅうごいのげとおとうみのかみ)に命じられました。 御遺訓にはこの官職名が記され、八戸藩が盛岡藩から分家したのではなく、 幕府から新たに取り立てられたことも書かれています。
■八戸藩領内境塚大絵図 (はちのへはんりょうないきょうづかおおえず) 八戸藩は、南部藩から分立した形で誕生したため両藩に 境界はありませんでした。八戸藩は、歴史が浅かったために藩政全般に渡り 盛岡南部藩の指導・助言を得なければならない立場にありましたが、 粘り強く交渉して藩政立九年後に全境界を定めることができました。 この絵図面は、その藩境を示すもので、大きな黒点が南部藩が築いた境塚、 小さい黒点が八戸藩が築いた境塚です。
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