| 源義経は、平泉・高館で自害せず、密かに脱出したと言われている。脱出後、八戸市内に上陸・滞在し、竜飛崎から北海道へ渡り、樺太、モンゴルへと移り、義経は成吉思汗(チンギス・ハーン)になったと言われている。 八戸市内には、義経が立ち寄ったと言われる場所が古くから伝えられており、800年以上経った現在でも、伝説として市民に受け継がれている。 ≪八戸市内の経路≫ 種差海岸(たねさしかいがん) → 源治囲内(げんじかこいない) → 館越(たてごし) → 高館(たかだて) |
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海路脱出した義経の八戸の上陸地点と言われている。現在の種差海岸から数百メートル山手のところに、義経が上陸後休憩したと言われている「熊野神社」という小さなお宮がある。 |
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種差海岸上陸後、義経が一時匿われていた場所であることから、この名が付いたと言われている。世話になった感謝の印として「判官」と名乗ることを許したと言われ、現在も「法官(ほうがん)」という苗字の住民がいる。なお、館の近くに水汲みに来た娘と恋に落ち、女児を授かったというがその後のことは伝えられていない。 |
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源治囲内を後にした義経は、市内を流れる新井田川(にいだがわ)をさかのぼり、現在、館越山と呼ばれている場所に居を構えたと言われている。この山の由来は、後に義経が高館に引越しする際に、館を引越ししたところという意味で、このようになったと言われている。 |
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新たな館として館越山より展望が開けた高館山に居を移して以来、一体が「高館(たかだて)」と呼ばれるようになったという。また、高館山の麓にある小田八幡宮には、義経が写経したと言われている大般若経が保存されており、京都から持参していた毘沙門天を安置する毘沙門堂を立てたと言われている。義経が、この周辺に田んぼを段々に開いたことから、「小田(こだ)」と命名されたといわれている。 |
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義経は正妻(京都の公家、久我(こが)大臣の娘)を伴って八戸まで逃げ延びてきたが、1205年4月にその正妻が亡くなった。その亡骸を当時京ケ崎と呼ばれていた場所に葬ったと言われているが、現在は、龗(おがみ)神社になっており、久我大臣の娘が使用したと言われている手鏡が保管されている。(同神社には、源義経北行伝説を記した「類家稲荷大明神縁起」が伝わっている。) |
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三八城(みやぎ)神社には力自慢の弁慶の足跡が刻まれているといわれている「弁慶石」が現存している。また、「義経石」と言われる石もあったといわれているが、現在は行方不明である。 |
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義経が藤原秀衡死後、脱出先を探るため、家臣の板橋長治(いたばしちょうじ)を八戸に派遣したと言われている。板橋は、市中心部の小高い丘に居を構えたと言われており、当初は長治山だったらしい。現在は、長者山新羅神社となっており、近くには同じ源氏の流れを汲む八戸藩主南部家墓所「南宗(なんしゅう)寺」もある。 なお、周辺には、板橋長治にちなんだ「板橋」という地名や、米の糠を捨てた場所ということから名づけられた「糠塚(ぬかづか)」という地名が残されている。 |
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京都の稲荷神社を信心していた義経は、現在の類家地区に藤ヶ森稲荷神社を勧請し、自ら神事を執り行ったと言われている。 |
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義経が、8.藤ヶ森稲荷神社に来た際に、烏帽子を掛けたといわれたことから、その一帯が帽子屋敷と命名されている(現:類家二丁目付近)。現在は、芭蕉堂公園になっている。 |
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義経が、高館からどこまで遠くへ矢を放つことができるか弁慶に命じたところ、4キロも離れた馬淵川を越えたところへ届いたという。その矢を抜いたところ、水が湧き出たことから、矢止めの清水と言われている。 |
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義経が、八戸に上陸する前に派遣した板橋長治と喜三太が、米を運ぶために牛を繋いでいた村として「うしひき村」が「櫛引(くしひき)村」になったといわれている。 また、高館に住んでいた義経が、蛍が飛び交う姿に興味を持ち、現在の八太郎山の東端を「ほたる崎」と名付けたといわれている。 |
| (参考資料)「北の義経伝承」(正部家 種康著、伊吉書院刊) |