今回は「城下町のなごりが残る建造物等」 をいくつかご紹介したいと思います。

第3回目の「八戸の城下町」で「文久改正八戸御城下略図(八戸市立図書館蔵)」をご紹介しましたが、

現在の市街地には、江戸時代のその図を持って歩いても充分に道をたどることが出来るほど、当時の「骨格」といいますか、「町割り」がほぼ変わることなく残っています。暖かい季節になりましたら、この地図を片手に、八戸の歴史に思いを馳せながら、改めて中心街を散策してみてはいかがでしょうか。

文久改正八戸御城下略図 [512KB PDF] 

(1)三八城神社

元禄2年(1689)、八戸藩2代藩主南部直政が城内に勧請した新羅宮が始まりです。社宝として、直政が寄進

したと伝えられる具足と太刀があります。

明治7年(1874)、新羅三郎義光命・南部三郎光行命・南部左衛門佐源直房命を祭神とし、旧本丸の御殿跡に再建されました。明治11年、八戸南部家11代当主の南部麻子が南部家ゆかりの軍装用具などを寄進しています。拝殿に掲げられる「三八城」の額は、南部利克(八戸南部家12代当主)が7歳の時に揮毫

「三八城」とは、三戸郡八戸の城という意味です。

※揮毫(きごう)とは・・・・毛筆で文字や絵を書くこと

 

(2)三八城公園

  寛文4年(1664)の八戸藩の誕生から明治4年(1871)の廃藩置県までの207年間、南部家の居城・八戸城が

あった場所です。公園は八戸城本丸跡の一部になります。昭和21年(1946)、八戸南部家12代当主の南部利克より八戸市が公園用地として寄付を受け、整備を行っています。

  展望デッキからは、安政5年(1858)に、9代藩主南部信順の別邸として造営された売市の「御田屋」(八戸南部氏庭園)を見渡すことができます。

 

(3)八戸城角御殿表門

 寛政4年(1792)、「角(すみ)御殿」と呼ばれていた屋敷地を八戸藩士の煙山覚左衛門が拝領し、同9年(1797)5月に煙山治部右衛門が表門として建立しました。廃藩置県後は、旧八戸藩主の屋敷となり、「南部子爵邸表門」と呼ばれました。昭和52年、雪の重みで道路に倒れ、修復工事を行っていた際に、門の横木に埋納されていた高さ3.6cmの「毘沙門天像」(博物館に展示中)と3枚の「棟札」が見つかりました。県重宝に指定されています。

※棟札(むなふだ)とは・・・・建築物の造営や修復の際に、その建物の由緒や建築関係者、建築年月日などを記した木の札

 

(4)龗(おがみ)神社

 現在の社殿は、文政8年(1825)に造営されました。藩政時代は「法霊(ほうりょう)大明神」と称し、藩主の祈願所として、八戸藩の藩神としての地位を占めていました。現在、八戸三社大祭が行われていますが、当社から長者山新羅神社への御輿渡御が大祭のメインイベントとなっています。

※御輿渡御(みこしとぎょ)とは・・・・神社の御神体などを神輿に移し、移動させること

 

(5)南部家表門

 藩政期は逸見家の屋敷でしたが、明治に「南部」に復姓しました。この門は、もとは売市の藩主別邸「御田屋」(八戸南部氏庭園)の表門を移築したものと伝えられています。一間の棟門ですが、規模も大きく豪壮です。

 

(6)八戸城東門跡地

 安政6年(1859)の台風で倒れ、家老の木幡家に払い下げられたことが、同家の古文書に記されています。現在、「史跡根城の広場」の入口として活用されています。

 

(7)総(惣)門跡から鍵型に折れ曲がった道路

 惣門は土塁・柵によって囲まれ、惣門の外側には番所が置かれていました。この町名を「新荒町」と言いますが、「惣門丁」という別称もあります。惣門丁から荒町、荒町から廿三日町の神明宮前にかけての道路が鍵型に折れ曲がっているのは、敵が攻め込んできても真っ直ぐに見通せないようにするためです。

 

(8)神明宮

 現在の社殿は、慶応2年(1866)に再建されました。伊勢神宮と同様に20年毎の式年遷宮に際しては、代々の藩主により建て替えが行われました。茅(ち)の輪をくぐり、残る半年の無病息災を祈る「茅の輪祭」が毎年6月30日に行われています。

 敷地内にある御神木の大銀杏は見事です。大銀杏の側には、寺子屋の師匠を努めた神官・中居嘉治満を顕彰する石碑が弟子たちにより建立されています。

 

(9)南宗寺

 八戸南部家の菩提寺として、寛文6年(1666)に創建されたお寺です。開基は初代藩主の南部直房で、寺領100石、領内寺院の筆頭です。山号・寺号は直房の父・南部利直の法名「南宗院殿月渓晴公大居士」にちなみ、「月渓山南宗寺」です。臨済宗妙心寺派。

県重宝の山門は、元文4年(1739)建築の切妻造の四脚門です。本堂に歴代藩主の位牌、庫裏に八戸市指定文化財の杉戸・桐戸があります。県史跡の八戸南部家墓所には、初代藩主直房から11代麻子までの墓が立ち並んでいます。

※庫裏(くり)とは・・・・寺院の台所、住職や家族の住居

 

(10)長者山新羅神社

 八戸藩2代藩主の南部直政が、延宝6年(1678)に「虚空蔵菩薩」をお祀りしたのが始まりで、後に「新羅大明神」・「愛宕大明神」を合祀して、「三社堂」と呼ばれました。現代の拝殿と本殿は文政10年(1827)に造営されました。造営にあたり同9年から3年間にわたり藩営の富籤興行が行われ、修復資金が調達されています。社殿は「荘厳華麗領内随一」と言われました。現在、県重宝に指定されています。

 八戸三社大祭の中日に、「騎馬打毬」が行われる「桜の馬場」も、文政10年に整備されました。拝殿に俳諧献額「国光の発句」(八戸市指定文化財)や、境内には、歴史を刻む数々の石造物が建立されています。

※富籤(とみくじ)とは・・・・建築工事の為の資金収集の方法で、宝くじの起源

 

(11)櫓(やぐら)横丁

 江戸時代、火の見櫓があり、火事の際は早鐘を衝きました。そのため「櫓横丁」と呼ばれています。この町内に「自然真営道」をまとめた安藤昌益の居宅跡がありました。

 

(12)札の辻

 三日町と八日町との間にあり、法令伝達のための高札が掲げられていました。城下町表町の中心街であり、八日町の河内屋前には伝馬継所が置かれ、荷物の積み出しが行われ、賑わいました。また、三日町北側には「八戸三店(さんたな)」の一つである豪商「近江屋」が店を構えていました。

※伝馬継所(てんまつぎしょ)とは・・・・領内の物資を馬によって継ぎ送りするところ

 

八戸藩開藩350年目の節目の年となった今年も残すところわずかとなりました。1年をとおし5回にわたり八戸藩についてご紹介させていただきましたが、この企画も今回が最終回となります。一年間、お付き合いくださいましてありがとうございました。

それでは、新しい年が幸多い一年となりますことをお祈り申し上げ、皆様、良いお年をお迎え下さい!

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